2015-10-04

『カンタ!ティモール』を観て号泣!


アジアフォーカス福岡映画祭

バリアフリー上映会

で開催された


カンタ!ティモール


を観てきました。





東ティモールで耳にした、ある青年の歌。日本帰国後もメロディが耳に残って離れない。
監督たちは青年を探すため島へ戻る。そして一つの旅が始まった───

「ねぇ仲間たち。ねぇ大人たち。僕らのあやまちを、大地は知っているよ」

歌はこう始まっていた。
直接的な言葉を歌えば命に危険が及ぶ、インドネシア軍事統制下にひっそりと歌われた歌だった。
青年に連れられて、監督たちは島の奥へと入っていく。
そこに広がるのは、精霊たちと共にある暮らし。青い海、たわわに実るマンゴー、はじけるような笑顔の人々。
常夏のおおきな太陽に照らされ、深い影を落とすのは、人々の命を奪った軍事侵略。
報道にのらない地下資源ビジネス、日本の驚くべき行動。
3人に1人が命を落としながら、彼らが守り抜いたもの───

「悲しい。いつまでも悲しみは消えない。でもそれは怒りじゃない。怒りじゃないんだ。」

「人は空の星々と同じ 消えては 空を巡り また必ず 君に会える」

弾丸が飛び交う中、人々は命をわけるように助け合い、そして笑い、歌った。
大地に生かされ、輪になって踊る、遠く懐かしい風景。
いつのまにか、ティモールの旅はそっと監督たちに問いかける。
愛すべきふるさと、日本の島々の姿を───






ただチケットが余っていたので

気まぐれで観ただけなんです。


なので、内容も知らず。




ドキュメンタリー映画で

作者も最後はこんな感じの映画になるとは

思っていなかったと思います。


きっかけは

東ティモールに行ったときに

出逢った青年から教えてもらった唄。


その歌詞の意味を

教えてもらうべく

再度、東ティモールに渡ったことから

話しは広がっていくのです。



まず、日本人で東ティモールという

国が存在していることを知ってる人は

何パーセントいるのでしょうか?


私は、恥ずかしながら知りませんでした。



東ティモールの歴史を紐解くと


 第二次世界大戦では中立の立場を取っていたポルトガルであったが、1941年12月17日、ポルトガル領ティモールは日本軍による利用を警戒したオランダ軍とオーストラリア軍に保障占領された。
1942年2月20日、日本軍がティモール全島を占領し、ポルトガル領ティモールも事実上は日本軍の統治下になった。
1943年前半まで連合国軍がゲリラ戦を展開し、ティモール現地人の一部も両陣営に分かれて戦闘した。
1944年6月、ポルトガルのアントニオ・サラザール首相は、日本に対し、ポルトガル領ティモールからの日本軍撤退を正式に要請した。多数の日本軍が駐屯する一方で、1945年に入るとイギリス軍やアメリカ軍、オーストラリア軍などの連合軍による海上封鎖が行われたため食糧不足となり、飢餓や戦闘で4万から7万人のティモール人が命を落とした。
1945年5月、日本とポルトガルとの間で、ポルトガル領ティモールからの日本軍撤退の交渉が開始された(日本の敗戦後、日本軍が撤退した。)。


そうなんです。

東ティモールは日本の植民地だったんです。



それだけではありません。

東ティモールは1975年から1999年までの

24年間

もインドネシア軍から攻撃を受け

戦闘が続いていたんです!



なぜ24年間も激しい戦争下にいて

日本では知られていなかったのか?




それは情報操作されていたからです。

怖いですね。


インドネシア軍は人間なんでしょうか?



この戦争で人口の1/3が殺されたそうです。

殺し方も残忍です。


女性は、襲われ集団で暴行され

殺されていくのです。


統治下にある学校では

女学生に対し

インドネシア軍により

妊娠コントロールがなされました。



暴行による妊娠を減らすために…。

危ない薬を飲むように

命じられたのです。


ありえません!


暴行を止めるのではなく

妊娠コントロールなんて!





そんなインドネシア軍に対し

東ティモールはゲリラ戦で対抗します。


ゲリラは捕虜にしたインドネシアの軍人に対し

自分たちが戦っている理由について話し

その後無傷のまま返すんです。


「悲しみはあるが,憎しみではない」

と言って。



この地道な活動が

世界の国を動かすことになるのです!



サンタクルス事件は

1991年11月12日にインドネシア支配下の

東ティモール・ディリで起きた大量虐殺事件。


インドネシア国軍が

独立を求めるデモ行進を行っていた市民に対して

無差別に発砲し大量の死傷者を出しました。





1975年

インドネシアによる侵攻を受け

1976年

インドネシアの27番目の州として併合が宣言されました。


それから、独立を求める住民に対し

インドネシアは弾圧を続けてきました。


侵攻後の2か月間で

約60,000人の住民が殺害されたとされ

インドネシアによる統治の間に

全人口の4分の1から3分の1の人々が

インドネシア国軍の犠牲になったといわれています。


この比率は

第二次世界大戦後の世界における

虐殺のなかでも最悪のものであります。


1991年

ディリで独立派の若者が

インドネシア国軍の武装集団に殺害されました。



若者はサンタクルス墓地に埋葬されましたが

殺害から2週間後の墓へ花を捧げる儀礼の際

参列していた群集が独立を求めるデモと化し

インドネシア国軍が群集に向かって発砲しました。


また、発砲などで負傷した市民も

軍によって病院などに運ばれた上で殺されたんです!


事件の様子は映像などで海外で伝えられ

東ティモールの独立を求める国際世論は

大きな高まりを見せました。



この事件により世界に

インドネシア軍の非道が

明らかにされ

世論が動くこととなります。




一番ショックだったのが

そのインドネシア軍を支援していた国のひとつが

日 本

だったのです!



なぜ、この平和な東ティモールが

戦乱に巻き込まれるようになったのか?


それは東ティモール界隈が

豊かな油田に囲まれていたから…。


その利権を狙って

いろんな国から狙われていたのです。




インドネシアの軍事侵攻したことに対し

西側諸国が経済制裁をした際

日本は逆に

経済的な援助をインドネシアに対し

行っていました!


お金で戦争に参加していたんです。



他国が経済制裁をした金額を

日本が増額して援助してたんです!


私達の税金から!!




また,東ティモールの独立に対し

国連の投票が行われた際

日本は

 yes (賛成) でも abs (棄権) でもなく

no (反対) としたんです!



しかし,独立後は

自衛隊を派遣したり

経済的に援助を行ったりして

独立の支援を行っています。



映画の中で

島の老人は日本に対して

「皮肉なものだ」

と言っていました。



世論の圧力により

インドネシア軍も反抗できなくなり


1999年8月30日

国連主導の住民投票が行われました。


インドネシアも了承しての投票です。


それでも水面下では

東ティモールの人々に

圧力をかけていたそうです。


結果

独立に関する住民投票が行われた。
(投票率98.6%)

9月4日に発表された投票結果では

自治拒否78.5%で

特別自治権提案が拒否された事で

独立が事実上決定。




これで晴れて独立か!?

とはならないのです。



9月7日
(わずか投票から3日後)

インドネシア治安当局は

東ティモールに非常事態宣言を発令し

国軍5,500人を増兵し

インドネシア併合維持派の武装勢力(民兵)を使って

破壊と虐殺を行います。


この破壊で東ティモールの9割の

民家が焼かれました。



9月12日

インドネシアが

国連平和維持軍の受け入れを容認し

オーストラリア軍を主力とする多国籍軍が

派遣されました(東ティモール紛争)。


その結果

暴力行為は収拾しましたが

多くの難民が西ティモールに逃れ

あるいは強制的に連れ去られたりしました。



東ティモールの歴史は

あまりにも悲惨で涙なしでは

観れない映画です。


それでも

また観たい!と思わせるのは

東ティモールの方々の笑顔です。



私の拙い言葉では

表現できない部分もあるので

実際にこの映画を

日本人に観て欲しい。



1999年って

つい16年前のことです。



日本政府は

こんなことを行っていたんです。


恥ずかしいことです。



安保が可決された今

次は自衛隊が破壊と虐殺に

加わる可能性もありますよね?


ゼロとは言えませんよね?



日本が行っていることを

日本人が知らないって

どうしたらいいんでしょうか?












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